2007/09/28

装幀挿絵画家という立場

 ボクが「装幀挿絵画家」という肩書きに固執しているのにはそれなりのワケがある。そうでなければ、このような場所を自ら作り出す理由はあり得ない。

 「装幀挿絵画家」という呼称はあらゆる芸術的な意味合いを内包しない。むしろ疎外するのである。意外に思われるかもしれないが、ボク個人にとってはそうである。ボクが描く絵は常にテキストに従属する「商品」としての価値以外をボク自身が認めないからである。また、仕事以外で描く絵は、「商品」価値を高めるための実験と研究のためのものであり、所謂「作品」という価値は何にもない。他者がボクの絵に「作品」としての価値を認めるのは自由である。ボク自身、かつて先達の絵に触れたときにはテキストと分離した状態で素直に「作品」としての価値を感じていたし、それは今もそうである。

 ボクは「装幀挿絵画家」として資本主義国家・日本と社会契約をしているわけで、契約とはすなわち経済活動に措いてのみである。それ以上でも以下でもない。そういった意味では、所謂「芸術家」ではない。むしろ「労働者」(特殊ではあるが)としての側面の方が、ボクにとっては重要なのである。マルクス・レーニン主義的表現でいえば、プレリタリアートに過ぎない。種々の専門書、或いは日々の営みは基本的に「装幀挿絵画家」としての立場に集約される。一見、奇矯な発言に思われるかもしれないが、ボク自身が「装幀挿絵画家」という立場に託した思想とは正にこれなのである。

 「装幀挿絵画家」は当たり前の話しだが、絵を描く。絵を描かない絵描きは絵描きではない。絵描きと言う大きな枠組みの中に「装幀挿絵画家」が内包されている以上、ボクは絵を描き続ける。そして、往々にして誤解されるのだがボク自身が「好きでやっている」と見なされるケースが良くあるのである。もちろん好きであることは間違いないのだが、ボクはこの「好きなこと」を社会契約として売り飛ばしてしまっている、と言う事実が世間的には理解しがたいものと映るようである。それはイラストレーターとか、クリエイター、あるいはアーティスト、といった定義が不明瞭な領域に埋没している結果であり、特に驚くことでは無い。が、こうした世評とボク自身の思考があらゆる場面で対立、あるいは誤解を招き、ボク自身が深刻な悩みに陥っていることもまた事実である。
 ボク自身が考える「装幀挿絵画家」としての立場を誠実に全うしようとすればするほ、こうした矛盾は顕在化される。これが今ボクが抱えている最大の悩みであり、自己矛盾でもあることを素直に告白しよう。

 が、一方でもっと矛盾の生じ得ない職業というのはあるのも事実である。それは、会社員であったり(ボク自身かつて会社員であった時期がある)なんかするのだが、ボクはこのような集団生活に溶け込むことが出来ないのである。所謂「社会不適合者」に過ぎないのである。社会契約を行う上でボクに残された道は「絵を描く」という行為以外にあり得ない。というか、それしかできないのである。一種の精神障害者とみなされてもボクは何の痛痒も感じない。事実だからである。困るのは経済活動としての「装幀挿絵画家」という職業が今、個人的に困難な状況にある、ということである。

 最初は「生きるため」の労働であったのに、今では「生きながらえてしまった惰性」としての労働と化していることである。だからと言って日々の研鑽を怠ることは無い。問題の根本は「ボクが生きている」という事実に過ぎない。ちなみに色々な所で言及しているが、ボクは運命論者でもなければ、神秘主義者でもなく、ある種の特権的な立場を望んでいるわけでもなんでもない。素直に仕事として「装幀挿絵画家」という立場を全うする義務に突き動かされいているだけである。

 こうした態度は、一般的に「狂気の沙汰」であり、「国民の義務と責任を放棄する不穏分子」としてしか理解されない。

 極めて遺憾である。

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