2012/01/27

論考中止の辞

どうやらここで論考していようとしていたことが、実社会では全く役に立たないどころか害にしかならないことに気がついたのでこれ以上の発表を停止することにした。

私的唯物論的機能主義は基本的に前衛と保守の間を揺れ動く。この揺れ幅を広くすることに特化した方法論である。ここで何度も繰り返したが、ある意味非常に危険な方法論でもある 。現代社会は揺れ動く子とを前提にした価値観をなぜか受け入れない。社会自体の価値観が酷く揺れ動いているにも関わらず。それは恐らくどこかにある種の普遍性を求める気持ちがあるのと、私的唯物論的機能主義の持つ表面上の危険性に恐怖を抱くからであろう。

念のために繰り返しておくが、ここで言う私的唯物論的機能主義はあくまでも装画・装幀・挿絵という極めて狭い範囲内でしか適用・実践されない。あくまでもボク自身のための方法論であるからだ。だから、最初からこの方法論の普遍性などボクは求めていないし、多様な価値観のうちの一つとして認識してもらえばいいだけの話なのだ。だが、ものの見事にこの価値観は受け入れられなかった。

「危険な方法論」であるとボクが称しているのは、あくまでもこの方法論はボクが装画・装幀・挿絵という仕事をするためにボクの性格や技術・価値観をベースにして最適化したものだからであり、万人に奨められる方法論ではないからだ。言い方を変えれば、ボクという個性を最大限に利用し、応用し、アウトプットするためだけに生み出された方法論である。仮に他の人がこの方法論を利用としても恐らくボクのそれとは異なるはずである。それでイイのだ。 人によって価値観は異なる以上、同じ方法論を採用しても同じ結果、もしくは同じ過程を経るとは限らないからであり、ここにこの方法論の重大で危険な陥穽がある。

私的唯物論的機能主義が最終的に目指したのは「20世紀型挿絵の終焉」であり、次の(もっと分かりやすくいえば21世紀の)新しい価値観や方法論を生み出すための布石に過ぎない。過ぎ去った20世紀の価値観や技術に囚われていては新しい何かを生み出すことは不可能であろう。そう言う点でボクは20世紀に足場を持ち、20世紀そのものにピリオドを打とうとしたのだ。傲慢な考えであることは百も承知しているが、ボクという人間が全力で生きていくための目標であることは明言しておく。

だが、残念ながらこの方法論は先にも記したように揺れ幅がある。もっと分かりやすくいえば、ボクが描き出す絵の様式そのものが多様になりすぎるのである。これはボク自身が望んでしたことだし、私的唯物論的機能主義という方法論を採る以上当たり前の結果なのだ。そして、それ故にこの方法論は社会的に葬り去られる結果となった。一人の人間が多様な様式を持つ、という事実そのものが社会的に受け入れられないらしいのだ。

描き出される絵だけに焦点を当てれば、現代社会では未だに「一人=一様式」という考え方の方が圧倒的に大勢を占める。このコト自体ボクには信じがたいのだが、実際そうなのだから仕方が無い。ナゼなら発注する側や受け手にとってはそっちの方が分かりやすいからである。逆の言い方をすれば、生活習慣に根付いた価値観の方が強いのである。このコト自体は別に驚くことではない。歴史上こういったケースは腐るほどある。しかし、まさか自分がその例の一つになるとは正直思っていなかった。「分かる人には分かるだろうし、どうせ描くのはボク自身なのだからどのような様式で描いてもボクの絵にしかならない」という楽観的な予測がものの見事に外れたに過ぎないのだが、正直この結果にはかなり堪えた。

机上の空論に陥らないために実践を重ねれば重ねるほど、こうしたズレは大きくなる一方であり、今や手に負えない状態になっている。自業自得であり、全ての責任はボク一人に帰結する。

それでなくても誤解を与えかねない方法論であると共に、強力な毒も含んでいる方法論なのだ。そしてボク自身が自家中毒を起こしてしまった以上、公的にこの方法論を述べるのは問題であろう。個人的には当たり前のコトしかしていないつもりだったのだが、周囲はそう見てくれなかったらしいということに気がついたので、この論考を発表することを停止することにした。

実は「画技考」のあとで私的唯物論的機能主義のもっとも中心的な思考法を述べる予定だったのだが、こうした現状を鑑み「危険すぎる」と判断した次第である。 あくまでもボク自身の中にしまっておくべきコトだと言ってもイイ。

ボク自身はもう引き返すことが出来ないところまで来てしまっているのでどうしようもないが、誰かを道連れにする気は毛頭ないし、むしろ失敗の教訓として見て頂ければ幸いである。

2012/01/21

画技考:素描3

素描というのは特にデッサン力を引き上げる、と言う目的だけではない。もっと重要なのは「絵を描く身体を作る」という点の方が重要である。絵が体技であることは先述した。体技である以上はそれなりの基礎体力が必要であることも先述したし、何よりからだが自由に動くというコトも先述した通りである。これらをまとめて「絵を描く身体」になるのだ。

 絵は手先で描くものではない。びっくりするほど勘違いされている方が少なくないので改めて宣言しておく。ちなみに器用さとも無縁である。これもよく勘違いされている。絵は目と身体で描く。「絵を描くのが苦手」という人は普通目が絵を描くために適していない、と言うケースが大半である。これは別に異常なことではない。走るのが速いか遅いか、と言う程度の違いである。訓練すればある程度まで目を最適化することは出来ます。あくまでも限界はありますが。

 問題は「絵を描く身体」の方だったりする。この点については「画技考:素描1」に書いておいた。全身を使った運動律の話ですね。ここで一つ書き忘れていたことに気がついたので補完してこの項を終えたい。

 筋力の話ばかりしていたが一番大事なコトを書き忘れていたのだ。身体の柔らかさである。素直に柔軟性と言ってもイイ。体育の授業でやる柔軟体操みたいなもん。実を言うと絵を描く上で一番必要なのは股関節の柔らかさである 。「また、アホなコトを」と思われる方も少なくないと思われるが実際そうなのだから仕方が無い。普通、絵を描くときは上半身の運動が基本となるが、この運動を支えるのはあくまでも下半身である。長時間、同じ姿勢をキープしようとすると余計に下半身への負荷は大きくなる。下半身ではなく背筋とか腰に来る人は下半身が使えていない証拠だ。全部、上半身で片付けようとするから負荷が必要以上にきつくなるのだ。

 一番、下半身の保持力が無駄なくキープできるのは「腰が割れた」状態である。重心が腰に安定してかかるような状態。もっと分かりやすく言えばお相撲さんが四股を踏むときに両足を広げて腰を下に落とした状態、あれである。ちょっと極端だけど。
 もっと極端な例を挙げれば「結跏趺坐」を試してみるとイイ。完全に安定して座り込んだ状態で 上半身が自由に動く。もっとも簡単に結跏趺坐はできないらしいのだが。あ、筆者は余裕で出来ます。股関節と膝関節が柔らかければ何の問題も無い。
 結跏趺坐をすると自然と上半身が真っ直ぐな状態になる。腰に重心が落ちている証拠だ。こうなると姿勢を保持するために上半身の筋肉はほとんど使われないことになる。別の言い方をすれば上半身は全て絵を描く事だけに集中して使えるのである。絵を描くだけなら別に強力を発揮する必要は無い。必要最小限の筋力で十分である。結跏趺坐でなくて胡座でもイイのだが、胡座の時はできるだけ膝を外に向ける。望ましいのは120°ぐらい開けばいいのだが、これも無理という方がよくいる。となると普通に椅子に座る、というコトになるのだが楽な分だけ自然で無理のない良い姿勢を保持しづらい。背筋が伸びてない人、それは悪い姿勢です(笑)

 ちなみに筆者は普段椅子の上で結跏趺坐を組むか胡座を組むかして絵を描いている。クセになってる、と言うのも事実だが実際楽なのだ。上半身が疲れることはあり得ない。

 今出来ないからといって嘆く必要は無い。これまた訓練で簡単にできるようになる。要は股関節を柔らかくすればいいのだ。この手のメソッドに関してはストレッチ運動に腐るほどあるが一つだけ例を挙げておく。筆者もやってる。

 まず床に座って両足の裏の全面を無理矢理ひっつけてそのまま股間に無理矢理踵を持ってくる。最初は膝の位置が高いかもしれないがそんなコトはどうでもよろしい。重要なのは足首で無理に足の裏をひっつけないようにすることだ。で、その状態で膝だけを上下に動かす。股関節に負荷がかかるように膝はできるだけ外に向ける。 最初は可能な範囲でイイです。無理すると筋切れます(笑)詳しくはこちらでも見て下さい。ストレッチの意図そのものは全く違いますが、やり方は一緒。半年もやればある程度効果は出るでしょう。もちろん個々人の体質によって効果は変わります。別に股関節が柔らかいからエラい、というワケではないのでその辺は勘違いしないように。あくまでも腰に安定して重心が落ちるようにするための実際的な方法論の一つにすぎません。
 ちなみに立って絵を描く場合は更にハードルが上がります。足を使いますからね。
 腰が安定すれば多分上半身の身体の柔軟性も気になるようになると思う。重心が落ちきっているので、上半身の柔らかさだけでしか身体は動かない。特に背筋、側筋、腰の硬さが露骨に出る。これは普通に絵を描いているうちに次第にほぐれてくるので特に訓練は必要ないです。

 絵を描くという行為が身体運動である、ということがこれでよく分かると思う。ちなみにここでは「絵のテクニック」は全く介在していない。その前の段階である。単純にどのような方法でも良いから絵を描く上で上記した身体能力は必ず使われている。絵を描いていて身体のどこかに異常を感じたら、それは恐らく根源的には重心の安定性に問題があるはずである。だから、素描の段階でこうした身体能力を訓練するのだ。見ようによっては呆気なさ過ぎるかもしれないが、実際そのようなもんである。

2011/12/02

再開の辞

相当長い間ほったらかしにしてしまっていたここのブログも公式HPの再立ち上げと共に再開することにした。投稿件数が何と7件という爆笑モノのブログだが、可能な限り論理的な説明をしようとするとあっさり飽きてしまう、という実に分かりやすい結果の賜物だろう。

 元々、アカデミックな裏付けがあるものでは無いし、今後もその姿勢は変わらない。

 ただ、4年前から既に同じコトを考えていたことだけは確認できた。4年間の沈黙はそれなりの確信をボクに与えたと言ってもイイ。

 予定通り「画技考」の続きからになる。

 まぁ、あまりアテにしないで温かい目で見守っていただければ幸いである。

2007/12/23

画技考:素描2

 描くという行為が運動律に則った体技であるということを前述した。楽しく描ければそれでいいのだが、楽しく描くにはやはりそれなりの基礎体力が必要である。筋トレが馬鹿馬鹿しい事この上ない事も前述した。自在に動かない筋肉をいくら作ってもそれは徒労に過ぎない。描くという行為の中からしか基礎体力もまた生まれないのである。そして、素描という行為がある意味この基礎体力を身につける格好の描法であることは言うまでもあるまい。それは主観的素描であれ、客観的素描であれ一緒であり、優劣を語る事はそもそも馬鹿げている。とにかく描く。

 体技というのは身体に憶えさせ、理性的に忘れさせる事である。「身につける」という事だ。これは一朝一夕にはいかない。身体に叩き込むしか無いのである。頭より先に身体が動く、或いは自在に身体が動く。クセにしてはいけない。自然に身体が動いて初めて自由自在になる。歩くように、呼吸をするように自然に動くまでひたすら描く。禅問答の様かもしれないがそうなのだ。テクニック云々以前の問題である。でなければ、いくらテクニックを身につけても楽しく描けるはずもない。とはいえ、一定の水準に達すればまぁ、楽しくは描けるだろう。ボクはここで水準をどの程度のものか、ということを敢えて避けたい。人それぞれ固有の水準があるのだ。即物的に、ハイここまで出来たら大丈夫、などというアホな事は言いたくもないし考えたくもない。

 体技とは正しくそうなのである。等しい体力などを望む方がどうかしている。それぞれの身体にあった良い運動律を身につければイイのだ。良い運動律には無駄が無い.当たり前である。自然に動くのだから。肩が凝る、腱鞘炎になる、腰が痛くなる、いずれも何か歪で無理な事をしているはずである。疲労はもちろんあります。身体を使う以上は疲れて当たり前。局所的な異変があるときは注意をした方がイイ。何か無理をしているのだ。だから身体が悲鳴をあげる。

 ちなみにボクはまだ素描を続けている。歳をとれば体力は落ちる。自明の事である。老いに逆らうほどボクは不遜ではない。歳相応の体力に応じた基礎を作り続ける。少なくともボクにとって素描の完成は無いのだ。それでイイと思っている。最終的にはイメージした事を絵にする、ただそれだけのことである。そのための基礎でありトレーニングである。幸い、不器用に生まれついているのでこういう事がボクにはあまり苦にならない。むしろ、素描の効果を知っているだけに楽しい。描けば磨けるのである。だから、ひたすら描く。主観的にしろ客観的にしろ、しっかりと目を開ければ必ず発見がある。それが楽しい。むしろ発見したいがために描いているのかもしれない。
 さらに不器用だから身体に逆らってまで描こうとは思わない。単純に怠惰だからかもしれないが、とにかく身体に任せる。だから、長時間絵を描いていても肩が凝ったりはしない。生まれてこのかた、絵で腱鞘炎になったり、首筋が痛くなったり、腰を痛めたりした事は一度も無い。ただ疲れるだけだ。ただしこれはあくまでも私事である。

 人によっては苦行にしかならないかもしれない。が、終局的に素描は楽しいものだ、と思えるぐらい描き続ける。でなければ、基礎トレーニングなど続くわけが無いのだ。

2007/12/14

画技考:素描1

 両部不二で提示した画技について考察をしてみよう。

 要は絵を描くテクニックである。私的唯物論的機能主義はテクニックに対して何の感情的論考を含まない。ただの技術だ。だが、技術である以上段階は明確にある。基礎はやはり素描であろう。

 素描と一口に言っても、よくよく分析をしてみるとこの素朴なカテゴリーにすらいくつかの段階、テクニックがあるのに驚かされる。

 第一に主観的素描とも言うべき物である。小さな子供が殴り描きをした絵を想像していただきたい。本能的な絵に見えるかもしれないが、それは純粋に主観的な素描である。対象があっても主観が優先される。もちろんテクニックもへったくれも無い。故に主観性はより全面に押し出されるのである。逆に理性的なテクニックが入り込んでくると主観性は後退する。故に理性を排除し、身体に叩き込まれた素描が出来るか出来ないかでこの主観的素描は評価される事になる。小手先のテクニックであるかどうかも、あっさり看破される。
 次に挙げるべきは客観的素描と言っておこう。これは対象物を客観的に眺める事を前提に描かれた素描である。感情の入る隙は全くない。純粋に理性的な分析による素描、と言ってもいいかもしれない。陰影法、遠近法などがその最たるものであろう。が、理性的なテクニックが重要な位置を占めるかどうか、という点についてはもう少し考えたい。一本の線で客観的な素描を可能とする先達がいる事を思えば、これはかなり複雑な問題を内包していると言えよう。

 どちらの素描についても言える事だが、素描はあくまでも素描なので、線で描こうが面で描こうがそんな事はどうでもよろしい。道具も何でもいいのだ。重要なのは体技であるという点にある。もっと簡単に言えば身体を使った運動である。運動である以上は運動の原理もまた存在し、更に言えば絵を描くための必要充分な体力も存在するという事である。
 「小手先」という言葉を上述した。これは絵を描く上で身体のほんの一部分、露骨に言えば指しか使っていない事を意味する。こういう描き方をする人は得てして腱鞘炎になりやすい。本質的な技術になっていないからである。
 指というのは絵を描く上で特に大きなウエイトを占めている訳ではない。むしろ逆である。些細な部分に過ぎない。ボクと師匠は絵を描く時いつも「指を殺す」という言い方をする。指というのは極めて繊細で理性的な運動を行いやすいので、しばしば安易に用いられるが、素描というカテゴリーの中で考えると、これは主観的にしろ客観的にしろあまりに浅薄な運動と言えるだろう。浅薄であるが故に、素描そのものの説得力が薄くなる。自明の理である。
 見て気持ちがいい素描というのはやはり大きな運動律の中で描かれている。どれほど繊細であろうと、緻密であろうとそれは一緒である。

 では、大きな運動律とは何か?答えは簡単、全身を使えているかどうかである。「絵は下半身で描く」という言い方をする人もいる。そう、下半身の堅牢な支えがあってこそ上半身を全面的に使えるのである。それは座って描いてても一緒で、漫然と座って描いているか、しっかりと腰を据えて座っているかで上半身の運動を大きく左右する。絵の大きさは関係ない。手首を支えるには肘が必要であり、肘を支えるには肩が必要であり、肩を支えるには背筋が必要であり、背筋を支えるには上半身全ての筋肉が必要だからだ。上半身全ての筋肉を支えるのは下半身である。要は全身運動に他ならないという事だ。

 だからといって筋力トレーニングをするのは浅はかであろう。別に全身の筋肉を緊張させる事は無いのである。むしろ、リラックスして自在に動ければよろしい。もっと簡単に考えていただきたい。描けばいいのである。とにかく描く。全身で描く。名刺サイズであろうが壁画であろうが、とにかく全身を使う。あまりに単純すぎるが故に見逃されがちだが、素描とはそうした性質の物であり、素描という基本的な運動が成立しない状態では、いくらテクニックを用いても意味が無いのである。基礎というのはそういうモノであり、実に地味で忍耐力が必要な作業なのだ。だから逆に基礎を楽しめるかどうかでかなり大きな差が現れる。いやいややるよりも楽しんで出来た方が良いに決まっているではないか。主観的か、客観的かという問題はこの後に始めて提示されるべき性質の物である。

 素描を苦行にしてはいけない。むしろ楽しむべきである。楽しく描かれた素描は見て気持ちがいい物だ。デッサンが狂っているとか、そんなことは後回しでよろしい。とにかく楽しく描く。それでいいのである。