2007/12/14

画技考:素描1

 両部不二で提示した画技について考察をしてみよう。

 要は絵を描くテクニックである。私的唯物論的機能主義はテクニックに対して何の感情的論考を含まない。ただの技術だ。だが、技術である以上段階は明確にある。基礎はやはり素描であろう。

 素描と一口に言っても、よくよく分析をしてみるとこの素朴なカテゴリーにすらいくつかの段階、テクニックがあるのに驚かされる。

 第一に主観的素描とも言うべき物である。小さな子供が殴り描きをした絵を想像していただきたい。本能的な絵に見えるかもしれないが、それは純粋に主観的な素描である。対象があっても主観が優先される。もちろんテクニックもへったくれも無い。故に主観性はより全面に押し出されるのである。逆に理性的なテクニックが入り込んでくると主観性は後退する。故に理性を排除し、身体に叩き込まれた素描が出来るか出来ないかでこの主観的素描は評価される事になる。小手先のテクニックであるかどうかも、あっさり看破される。
 次に挙げるべきは客観的素描と言っておこう。これは対象物を客観的に眺める事を前提に描かれた素描である。感情の入る隙は全くない。純粋に理性的な分析による素描、と言ってもいいかもしれない。陰影法、遠近法などがその最たるものであろう。が、理性的なテクニックが重要な位置を占めるかどうか、という点についてはもう少し考えたい。一本の線で客観的な素描を可能とする先達がいる事を思えば、これはかなり複雑な問題を内包していると言えよう。

 どちらの素描についても言える事だが、素描はあくまでも素描なので、線で描こうが面で描こうがそんな事はどうでもよろしい。道具も何でもいいのだ。重要なのは体技であるという点にある。もっと簡単に言えば身体を使った運動である。運動である以上は運動の原理もまた存在し、更に言えば絵を描くための必要充分な体力も存在するという事である。
 「小手先」という言葉を上述した。これは絵を描く上で身体のほんの一部分、露骨に言えば指しか使っていない事を意味する。こういう描き方をする人は得てして腱鞘炎になりやすい。本質的な技術になっていないからである。
 指というのは絵を描く上で特に大きなウエイトを占めている訳ではない。むしろ逆である。些細な部分に過ぎない。ボクと師匠は絵を描く時いつも「指を殺す」という言い方をする。指というのは極めて繊細で理性的な運動を行いやすいので、しばしば安易に用いられるが、素描というカテゴリーの中で考えると、これは主観的にしろ客観的にしろあまりに浅薄な運動と言えるだろう。浅薄であるが故に、素描そのものの説得力が薄くなる。自明の理である。
 見て気持ちがいい素描というのはやはり大きな運動律の中で描かれている。どれほど繊細であろうと、緻密であろうとそれは一緒である。

 では、大きな運動律とは何か?答えは簡単、全身を使えているかどうかである。「絵は下半身で描く」という言い方をする人もいる。そう、下半身の堅牢な支えがあってこそ上半身を全面的に使えるのである。それは座って描いてても一緒で、漫然と座って描いているか、しっかりと腰を据えて座っているかで上半身の運動を大きく左右する。絵の大きさは関係ない。手首を支えるには肘が必要であり、肘を支えるには肩が必要であり、肩を支えるには背筋が必要であり、背筋を支えるには上半身全ての筋肉が必要だからだ。上半身全ての筋肉を支えるのは下半身である。要は全身運動に他ならないという事だ。

 だからといって筋力トレーニングをするのは浅はかであろう。別に全身の筋肉を緊張させる事は無いのである。むしろ、リラックスして自在に動ければよろしい。もっと簡単に考えていただきたい。描けばいいのである。とにかく描く。全身で描く。名刺サイズであろうが壁画であろうが、とにかく全身を使う。あまりに単純すぎるが故に見逃されがちだが、素描とはそうした性質の物であり、素描という基本的な運動が成立しない状態では、いくらテクニックを用いても意味が無いのである。基礎というのはそういうモノであり、実に地味で忍耐力が必要な作業なのだ。だから逆に基礎を楽しめるかどうかでかなり大きな差が現れる。いやいややるよりも楽しんで出来た方が良いに決まっているではないか。主観的か、客観的かという問題はこの後に始めて提示されるべき性質の物である。

 素描を苦行にしてはいけない。むしろ楽しむべきである。楽しく描かれた素描は見て気持ちがいい物だ。デッサンが狂っているとか、そんなことは後回しでよろしい。とにかく楽しく描く。それでいいのである。

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