2007/12/12

両部不二

 ここで言う「両部不二」とは便宜上使わせていただくだけの話であり、本来の意味するところとは全く違う事を先に断っておく。原典は密教にあり、金剛頂経系の智(精神の原理)と大日経系の理(物質の原理)の二つの異質なものを一つ身に修める事をいうらしい。世の中偉い人がいたものである。

 装画挿絵の両部とは何か?一つは行為であり、一つは思考である。ボクはおつむが弱いので上手に説明出来ないが、間をはしょって結論だけ言うとそういう事になる。

 行為とは。
 絵描きである以上、絵を描く事そのものであることは言うまでもあるまい。ただ、「描く」という行為の幅をボクは可能な限り広く、多く採るように努めている。これは後述する思考と大きく関係する。一つの様式を完成させようなどという不遜な考えをボクは持たない。様式とはボクにとっては方便に過ぎない。心身共に奥義を究めるような性質のものではないのである。暴論である事は承知である。まぁ、むちゃくちゃな考え方だが、原理だけは把握する。実践においては本物に近いものが出来ればそれでいいのである。だからといって様式そのものを否定するつもりは毛頭ない。そこにある画技には原理がある。使わせていただく以上はその原理を「知る」必要がある。少なくとも気がつかなければならないし、気がついた以上は敬意を払うべきである。それが礼儀というものだろう。
 ボクにとって「こんな絵は描けないですよね?」と言われるのは侮辱以外の何ものでもない。実際、今描けなくてもいずれ描けるようにしてしまおう、という野心は常にある。だから常に学ばねばならない。死ぬまで続く。
 このようなアホな事を前途有望な若者に教える気は更々無い。そもそもこうしたコトを思いついたり、納得した段階で人としてどうかしているのである。が、ボクはボクの師匠から教えられ目から鱗が落ちた。これこそが挿絵に措ける機能主義以外の何ものでもないのである。そして、ボクは腑に落ちてしまったのだ。どうしようもないではないか。

 そしてここに思考というもう一つの要素が加わる。
 挿絵画家は文章を読んで絵を描く。文章を読むというのはただ読むだけではない。文章を解体し物語のもっとも純粋な結晶とも言うべきものを抽出する事である。これが出来なければ、挿絵は挿絵として成立しない、というのがボクの持論である。持論なので一般的ではない。普遍化するつもりもない。ボク一人の身に修め門外には出さないつもりである。ナゼかと言うと思想というには余りに歪であり、偏りすぎているからである。何よりもこういう考えは元々バウハウス的機能主義、言い換えればデザインの世界で発生した考え方であり、挿絵とかイラストレーションのような境界が曖昧な領域で生まれたものではないからである。目的に応じて素材を吟味し設計をする、ただそれだけの話なのだが、グラフィック一般に措いてはこれがなかなかに厄介な上、挿絵となる更に条件が悪化する。
 目的とは何か?抽出した物語の結晶を絵に置き換える事である。素材とは画技であり、設計とはイメージする事である。自ずと物語に沿った絵が出来るはずである。空論に等しい事はボク自身が認めている。だが空論に陥らないためにボクはこうした思考に則って実践をする。が、完全に成し遂げる事は恐らく不可能であろう。ボクはそこまで賢くない。

 これでやっと両部不二の本題に入れる。いくら思考をしても実践が出来なければこれは空論に過ぎない。いくら描いても思考が無ければ挿絵たりえない。ボクは思考の部分で「素材とは画技である」と宣言した。素材は多ければ多いほどいいに決まっている。だからと言って上っ面だけを掠めても薄っぺらいモノしか出来ない。「原理を知る」という事がいかに重大か想像出来るであろう。
 逆にいくら素材が多くても、それを的確に使う事が出来なければ無意味である。物語の純粋な結晶体を抽出してこそ初めて素材を選択出来るのである。抽出するには引き出しの多さが必要となる。すなわち素材の量と質である。

 両者は異質ではあるが根本においてはやはり一つのものなのだ。が、ボクはこの両部を誰かに伝える気は無い。というか、思考の部分がめちゃくちゃ危険なのである。実際ボクはこれで身を危うくし続けているし、そのような考えを誰かに引き継いで欲しいとも思わない。だから誰かに何かを伝えるとしたら、それは画技に限られる。それもボクが知っている全てではない。全てを教えてしまうのもまた剣呑極まり無いのだ。だから、人によって教える事が出来る画技の量は限界がある。むざむざ破滅の道に誰かを引きずり込む気は無い。ボク一人で充分である。

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