2007/11/29

How to 或いは教示

 ボクに言わせればこれほど厄介なコトは無い。単純に個人の資質の問題であり、ボクがこうした事に向いていない人間である、というだけの話だ。先日作ったHow to ネタのための絵と解説も正にそうで、解説はいささかも解説にはなっていなかったりする。幸い、この辺の所は編集部の方で手を入れてくれるので基本的には問題ない。ボク自身が解説になっていない事を全面的に認めているので、編集作業は躊躇無く編集部に委ねられた。

 さて、ではなぜボクの書く解説が解説にならないのか?答えは簡単、ボク自身がボクがやっている事に何の魔術的効力が全く無い事を熟知しており、種や仕掛けはどこにも無いからだ。が、第三者から見ると話は別である。ボクにとって自明の理である事が、何か特別な技法、特殊な道具、特殊な段階を経ているように感じられることがあまあるらしいからである。
 まずはっきりさせておこう。ボクは特別な事はしていない(とボクは信じている)。特段、取り立てて特殊な訓練を受けたわけでもない(むしろ逆だ)。さらに、普段仕事で利用するPainterとPhotoshopに至っては、極めて古いヴァージョンの頃からある基本的な機能しか用いていない(新しい機能を覚える気力は全く無いし、昔ながらのの使い方で充分快適に作業出来る)。

 が、第三者の目から見ると摩訶不思議らしい。ついでに担当編集者に言わせると「一般的な尺度からすると、クオリティーと作業速度の関係が異常である」らしい(速すぎると言う事のようだ)。このことについてはボクにはよく分からない。何の手品も使っていないし、秘技を行っているわけでもない。ただ描いた、それだけである。もし、この「ただ描く」という行為が他者よりも速いとすれば、それは極めて単純な訓練の積み重ねの結果に過ぎない。単純な訓練とは何か?素描である。しかも非常に主観的な素描。所謂、陰影法とか遠近法とか言われる類いのものですらない。美大を受験する時のようなデッサンの訓練をボクはした事が無いし、この先も恐らくしないだろう。これは純粋にボクの性格に起因するものであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、解説が解説にならないのである。

 ボクにとって「どうしたらこんな風に、しかも短時間で出来てしまうのですか?」という問いは「どうしたら呼吸が出来るでしょうか?」という問いに等しい。そういう次元の考え方の持ち主が、どうして自分の作業を解説出来るだろうか?無理に決まっている。だが、問いを発する側にとっては重要な事である事もボクは何となく理解出来るし、そうした問いに対して否定的な立場を取るつもりは無い。が、いざ解説しようとすると上記した以上の事は決してボクの口から発せられる事は無いのである。質疑者は途方に暮れるだけ、何の解決にもならない。
 今回のように、間に編集者が入ってくれて翻訳(というしか無いではないですか)してくれる場合はまだマシである。直接ボクから聞かされた質疑者は煙に巻かれた気分を味わい、そして悩み、悄然とするであろう。つまり、ボクは教育者として不適合なわけである。

 そもそも、私的唯物論的機能主義というのが理解しづらいらしい。当たり前である。ボクがボクの性格、能力に応じてボク自身のために最適化した思考方法であり、普遍性とか真理とかとは程遠い所にある考え方だからだ。だが、ナニかを教えようとすればボクはこの歪な思考法に頼らざるを得ない。ボクにとって合理的でも、人によっては非合理のインゴットのように思われても仕方が無いのだ。この事をボクは熟知しているし、そもそもこの私的唯物論的機能主義はボクのオリジナルでもなんでもなく、ボクが勝手に師匠と拝む方から教えられた事を発展させたに過ぎないのだ。で、実際師匠の考え方を完全に理解し実践に移せる人間というのは限られているだろう。ボクはたまたまそういう僥倖に恵まれた(というか師匠同様、変人だった)だけである。似た者同士にならすぐに分かるが、少しでも外れるとあっという間に異端の思考と化し、下手をすると魔術的、或いは神秘的な奇跡になってしまう。
 はっきりさせておこう。ボクは何も隠さないし、何よりも私的唯物論的機能主義は本来ありとあらゆる方向に常に開示されている。理解出来るか出来ないか、それだけの話である。が、「それだけの話」だけにややこしいことになるようだ。

 不思議やなぁ・・・

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