2007/12/23

画技考:素描2

 描くという行為が運動律に則った体技であるということを前述した。楽しく描ければそれでいいのだが、楽しく描くにはやはりそれなりの基礎体力が必要である。筋トレが馬鹿馬鹿しい事この上ない事も前述した。自在に動かない筋肉をいくら作ってもそれは徒労に過ぎない。描くという行為の中からしか基礎体力もまた生まれないのである。そして、素描という行為がある意味この基礎体力を身につける格好の描法であることは言うまでもあるまい。それは主観的素描であれ、客観的素描であれ一緒であり、優劣を語る事はそもそも馬鹿げている。とにかく描く。

 体技というのは身体に憶えさせ、理性的に忘れさせる事である。「身につける」という事だ。これは一朝一夕にはいかない。身体に叩き込むしか無いのである。頭より先に身体が動く、或いは自在に身体が動く。クセにしてはいけない。自然に身体が動いて初めて自由自在になる。歩くように、呼吸をするように自然に動くまでひたすら描く。禅問答の様かもしれないがそうなのだ。テクニック云々以前の問題である。でなければ、いくらテクニックを身につけても楽しく描けるはずもない。とはいえ、一定の水準に達すればまぁ、楽しくは描けるだろう。ボクはここで水準をどの程度のものか、ということを敢えて避けたい。人それぞれ固有の水準があるのだ。即物的に、ハイここまで出来たら大丈夫、などというアホな事は言いたくもないし考えたくもない。

 体技とは正しくそうなのである。等しい体力などを望む方がどうかしている。それぞれの身体にあった良い運動律を身につければイイのだ。良い運動律には無駄が無い.当たり前である。自然に動くのだから。肩が凝る、腱鞘炎になる、腰が痛くなる、いずれも何か歪で無理な事をしているはずである。疲労はもちろんあります。身体を使う以上は疲れて当たり前。局所的な異変があるときは注意をした方がイイ。何か無理をしているのだ。だから身体が悲鳴をあげる。

 ちなみにボクはまだ素描を続けている。歳をとれば体力は落ちる。自明の事である。老いに逆らうほどボクは不遜ではない。歳相応の体力に応じた基礎を作り続ける。少なくともボクにとって素描の完成は無いのだ。それでイイと思っている。最終的にはイメージした事を絵にする、ただそれだけのことである。そのための基礎でありトレーニングである。幸い、不器用に生まれついているのでこういう事がボクにはあまり苦にならない。むしろ、素描の効果を知っているだけに楽しい。描けば磨けるのである。だから、ひたすら描く。主観的にしろ客観的にしろ、しっかりと目を開ければ必ず発見がある。それが楽しい。むしろ発見したいがために描いているのかもしれない。
 さらに不器用だから身体に逆らってまで描こうとは思わない。単純に怠惰だからかもしれないが、とにかく身体に任せる。だから、長時間絵を描いていても肩が凝ったりはしない。生まれてこのかた、絵で腱鞘炎になったり、首筋が痛くなったり、腰を痛めたりした事は一度も無い。ただ疲れるだけだ。ただしこれはあくまでも私事である。

 人によっては苦行にしかならないかもしれない。が、終局的に素描は楽しいものだ、と思えるぐらい描き続ける。でなければ、基礎トレーニングなど続くわけが無いのだ。

2007/12/14

画技考:素描1

 両部不二で提示した画技について考察をしてみよう。

 要は絵を描くテクニックである。私的唯物論的機能主義はテクニックに対して何の感情的論考を含まない。ただの技術だ。だが、技術である以上段階は明確にある。基礎はやはり素描であろう。

 素描と一口に言っても、よくよく分析をしてみるとこの素朴なカテゴリーにすらいくつかの段階、テクニックがあるのに驚かされる。

 第一に主観的素描とも言うべき物である。小さな子供が殴り描きをした絵を想像していただきたい。本能的な絵に見えるかもしれないが、それは純粋に主観的な素描である。対象があっても主観が優先される。もちろんテクニックもへったくれも無い。故に主観性はより全面に押し出されるのである。逆に理性的なテクニックが入り込んでくると主観性は後退する。故に理性を排除し、身体に叩き込まれた素描が出来るか出来ないかでこの主観的素描は評価される事になる。小手先のテクニックであるかどうかも、あっさり看破される。
 次に挙げるべきは客観的素描と言っておこう。これは対象物を客観的に眺める事を前提に描かれた素描である。感情の入る隙は全くない。純粋に理性的な分析による素描、と言ってもいいかもしれない。陰影法、遠近法などがその最たるものであろう。が、理性的なテクニックが重要な位置を占めるかどうか、という点についてはもう少し考えたい。一本の線で客観的な素描を可能とする先達がいる事を思えば、これはかなり複雑な問題を内包していると言えよう。

 どちらの素描についても言える事だが、素描はあくまでも素描なので、線で描こうが面で描こうがそんな事はどうでもよろしい。道具も何でもいいのだ。重要なのは体技であるという点にある。もっと簡単に言えば身体を使った運動である。運動である以上は運動の原理もまた存在し、更に言えば絵を描くための必要充分な体力も存在するという事である。
 「小手先」という言葉を上述した。これは絵を描く上で身体のほんの一部分、露骨に言えば指しか使っていない事を意味する。こういう描き方をする人は得てして腱鞘炎になりやすい。本質的な技術になっていないからである。
 指というのは絵を描く上で特に大きなウエイトを占めている訳ではない。むしろ逆である。些細な部分に過ぎない。ボクと師匠は絵を描く時いつも「指を殺す」という言い方をする。指というのは極めて繊細で理性的な運動を行いやすいので、しばしば安易に用いられるが、素描というカテゴリーの中で考えると、これは主観的にしろ客観的にしろあまりに浅薄な運動と言えるだろう。浅薄であるが故に、素描そのものの説得力が薄くなる。自明の理である。
 見て気持ちがいい素描というのはやはり大きな運動律の中で描かれている。どれほど繊細であろうと、緻密であろうとそれは一緒である。

 では、大きな運動律とは何か?答えは簡単、全身を使えているかどうかである。「絵は下半身で描く」という言い方をする人もいる。そう、下半身の堅牢な支えがあってこそ上半身を全面的に使えるのである。それは座って描いてても一緒で、漫然と座って描いているか、しっかりと腰を据えて座っているかで上半身の運動を大きく左右する。絵の大きさは関係ない。手首を支えるには肘が必要であり、肘を支えるには肩が必要であり、肩を支えるには背筋が必要であり、背筋を支えるには上半身全ての筋肉が必要だからだ。上半身全ての筋肉を支えるのは下半身である。要は全身運動に他ならないという事だ。

 だからといって筋力トレーニングをするのは浅はかであろう。別に全身の筋肉を緊張させる事は無いのである。むしろ、リラックスして自在に動ければよろしい。もっと簡単に考えていただきたい。描けばいいのである。とにかく描く。全身で描く。名刺サイズであろうが壁画であろうが、とにかく全身を使う。あまりに単純すぎるが故に見逃されがちだが、素描とはそうした性質の物であり、素描という基本的な運動が成立しない状態では、いくらテクニックを用いても意味が無いのである。基礎というのはそういうモノであり、実に地味で忍耐力が必要な作業なのだ。だから逆に基礎を楽しめるかどうかでかなり大きな差が現れる。いやいややるよりも楽しんで出来た方が良いに決まっているではないか。主観的か、客観的かという問題はこの後に始めて提示されるべき性質の物である。

 素描を苦行にしてはいけない。むしろ楽しむべきである。楽しく描かれた素描は見て気持ちがいい物だ。デッサンが狂っているとか、そんなことは後回しでよろしい。とにかく楽しく描く。それでいいのである。

2007/12/12

両部不二

 ここで言う「両部不二」とは便宜上使わせていただくだけの話であり、本来の意味するところとは全く違う事を先に断っておく。原典は密教にあり、金剛頂経系の智(精神の原理)と大日経系の理(物質の原理)の二つの異質なものを一つ身に修める事をいうらしい。世の中偉い人がいたものである。

 装画挿絵の両部とは何か?一つは行為であり、一つは思考である。ボクはおつむが弱いので上手に説明出来ないが、間をはしょって結論だけ言うとそういう事になる。

 行為とは。
 絵描きである以上、絵を描く事そのものであることは言うまでもあるまい。ただ、「描く」という行為の幅をボクは可能な限り広く、多く採るように努めている。これは後述する思考と大きく関係する。一つの様式を完成させようなどという不遜な考えをボクは持たない。様式とはボクにとっては方便に過ぎない。心身共に奥義を究めるような性質のものではないのである。暴論である事は承知である。まぁ、むちゃくちゃな考え方だが、原理だけは把握する。実践においては本物に近いものが出来ればそれでいいのである。だからといって様式そのものを否定するつもりは毛頭ない。そこにある画技には原理がある。使わせていただく以上はその原理を「知る」必要がある。少なくとも気がつかなければならないし、気がついた以上は敬意を払うべきである。それが礼儀というものだろう。
 ボクにとって「こんな絵は描けないですよね?」と言われるのは侮辱以外の何ものでもない。実際、今描けなくてもいずれ描けるようにしてしまおう、という野心は常にある。だから常に学ばねばならない。死ぬまで続く。
 このようなアホな事を前途有望な若者に教える気は更々無い。そもそもこうしたコトを思いついたり、納得した段階で人としてどうかしているのである。が、ボクはボクの師匠から教えられ目から鱗が落ちた。これこそが挿絵に措ける機能主義以外の何ものでもないのである。そして、ボクは腑に落ちてしまったのだ。どうしようもないではないか。

 そしてここに思考というもう一つの要素が加わる。
 挿絵画家は文章を読んで絵を描く。文章を読むというのはただ読むだけではない。文章を解体し物語のもっとも純粋な結晶とも言うべきものを抽出する事である。これが出来なければ、挿絵は挿絵として成立しない、というのがボクの持論である。持論なので一般的ではない。普遍化するつもりもない。ボク一人の身に修め門外には出さないつもりである。ナゼかと言うと思想というには余りに歪であり、偏りすぎているからである。何よりもこういう考えは元々バウハウス的機能主義、言い換えればデザインの世界で発生した考え方であり、挿絵とかイラストレーションのような境界が曖昧な領域で生まれたものではないからである。目的に応じて素材を吟味し設計をする、ただそれだけの話なのだが、グラフィック一般に措いてはこれがなかなかに厄介な上、挿絵となる更に条件が悪化する。
 目的とは何か?抽出した物語の結晶を絵に置き換える事である。素材とは画技であり、設計とはイメージする事である。自ずと物語に沿った絵が出来るはずである。空論に等しい事はボク自身が認めている。だが空論に陥らないためにボクはこうした思考に則って実践をする。が、完全に成し遂げる事は恐らく不可能であろう。ボクはそこまで賢くない。

 これでやっと両部不二の本題に入れる。いくら思考をしても実践が出来なければこれは空論に過ぎない。いくら描いても思考が無ければ挿絵たりえない。ボクは思考の部分で「素材とは画技である」と宣言した。素材は多ければ多いほどいいに決まっている。だからと言って上っ面だけを掠めても薄っぺらいモノしか出来ない。「原理を知る」という事がいかに重大か想像出来るであろう。
 逆にいくら素材が多くても、それを的確に使う事が出来なければ無意味である。物語の純粋な結晶体を抽出してこそ初めて素材を選択出来るのである。抽出するには引き出しの多さが必要となる。すなわち素材の量と質である。

 両者は異質ではあるが根本においてはやはり一つのものなのだ。が、ボクはこの両部を誰かに伝える気は無い。というか、思考の部分がめちゃくちゃ危険なのである。実際ボクはこれで身を危うくし続けているし、そのような考えを誰かに引き継いで欲しいとも思わない。だから誰かに何かを伝えるとしたら、それは画技に限られる。それもボクが知っている全てではない。全てを教えてしまうのもまた剣呑極まり無いのだ。だから、人によって教える事が出来る画技の量は限界がある。むざむざ破滅の道に誰かを引きずり込む気は無い。ボク一人で充分である。