2007/12/23

画技考:素描2

 描くという行為が運動律に則った体技であるということを前述した。楽しく描ければそれでいいのだが、楽しく描くにはやはりそれなりの基礎体力が必要である。筋トレが馬鹿馬鹿しい事この上ない事も前述した。自在に動かない筋肉をいくら作ってもそれは徒労に過ぎない。描くという行為の中からしか基礎体力もまた生まれないのである。そして、素描という行為がある意味この基礎体力を身につける格好の描法であることは言うまでもあるまい。それは主観的素描であれ、客観的素描であれ一緒であり、優劣を語る事はそもそも馬鹿げている。とにかく描く。

 体技というのは身体に憶えさせ、理性的に忘れさせる事である。「身につける」という事だ。これは一朝一夕にはいかない。身体に叩き込むしか無いのである。頭より先に身体が動く、或いは自在に身体が動く。クセにしてはいけない。自然に身体が動いて初めて自由自在になる。歩くように、呼吸をするように自然に動くまでひたすら描く。禅問答の様かもしれないがそうなのだ。テクニック云々以前の問題である。でなければ、いくらテクニックを身につけても楽しく描けるはずもない。とはいえ、一定の水準に達すればまぁ、楽しくは描けるだろう。ボクはここで水準をどの程度のものか、ということを敢えて避けたい。人それぞれ固有の水準があるのだ。即物的に、ハイここまで出来たら大丈夫、などというアホな事は言いたくもないし考えたくもない。

 体技とは正しくそうなのである。等しい体力などを望む方がどうかしている。それぞれの身体にあった良い運動律を身につければイイのだ。良い運動律には無駄が無い.当たり前である。自然に動くのだから。肩が凝る、腱鞘炎になる、腰が痛くなる、いずれも何か歪で無理な事をしているはずである。疲労はもちろんあります。身体を使う以上は疲れて当たり前。局所的な異変があるときは注意をした方がイイ。何か無理をしているのだ。だから身体が悲鳴をあげる。

 ちなみにボクはまだ素描を続けている。歳をとれば体力は落ちる。自明の事である。老いに逆らうほどボクは不遜ではない。歳相応の体力に応じた基礎を作り続ける。少なくともボクにとって素描の完成は無いのだ。それでイイと思っている。最終的にはイメージした事を絵にする、ただそれだけのことである。そのための基礎でありトレーニングである。幸い、不器用に生まれついているのでこういう事がボクにはあまり苦にならない。むしろ、素描の効果を知っているだけに楽しい。描けば磨けるのである。だから、ひたすら描く。主観的にしろ客観的にしろ、しっかりと目を開ければ必ず発見がある。それが楽しい。むしろ発見したいがために描いているのかもしれない。
 さらに不器用だから身体に逆らってまで描こうとは思わない。単純に怠惰だからかもしれないが、とにかく身体に任せる。だから、長時間絵を描いていても肩が凝ったりはしない。生まれてこのかた、絵で腱鞘炎になったり、首筋が痛くなったり、腰を痛めたりした事は一度も無い。ただ疲れるだけだ。ただしこれはあくまでも私事である。

 人によっては苦行にしかならないかもしれない。が、終局的に素描は楽しいものだ、と思えるぐらい描き続ける。でなければ、基礎トレーニングなど続くわけが無いのだ。

2007/12/14

画技考:素描1

 両部不二で提示した画技について考察をしてみよう。

 要は絵を描くテクニックである。私的唯物論的機能主義はテクニックに対して何の感情的論考を含まない。ただの技術だ。だが、技術である以上段階は明確にある。基礎はやはり素描であろう。

 素描と一口に言っても、よくよく分析をしてみるとこの素朴なカテゴリーにすらいくつかの段階、テクニックがあるのに驚かされる。

 第一に主観的素描とも言うべき物である。小さな子供が殴り描きをした絵を想像していただきたい。本能的な絵に見えるかもしれないが、それは純粋に主観的な素描である。対象があっても主観が優先される。もちろんテクニックもへったくれも無い。故に主観性はより全面に押し出されるのである。逆に理性的なテクニックが入り込んでくると主観性は後退する。故に理性を排除し、身体に叩き込まれた素描が出来るか出来ないかでこの主観的素描は評価される事になる。小手先のテクニックであるかどうかも、あっさり看破される。
 次に挙げるべきは客観的素描と言っておこう。これは対象物を客観的に眺める事を前提に描かれた素描である。感情の入る隙は全くない。純粋に理性的な分析による素描、と言ってもいいかもしれない。陰影法、遠近法などがその最たるものであろう。が、理性的なテクニックが重要な位置を占めるかどうか、という点についてはもう少し考えたい。一本の線で客観的な素描を可能とする先達がいる事を思えば、これはかなり複雑な問題を内包していると言えよう。

 どちらの素描についても言える事だが、素描はあくまでも素描なので、線で描こうが面で描こうがそんな事はどうでもよろしい。道具も何でもいいのだ。重要なのは体技であるという点にある。もっと簡単に言えば身体を使った運動である。運動である以上は運動の原理もまた存在し、更に言えば絵を描くための必要充分な体力も存在するという事である。
 「小手先」という言葉を上述した。これは絵を描く上で身体のほんの一部分、露骨に言えば指しか使っていない事を意味する。こういう描き方をする人は得てして腱鞘炎になりやすい。本質的な技術になっていないからである。
 指というのは絵を描く上で特に大きなウエイトを占めている訳ではない。むしろ逆である。些細な部分に過ぎない。ボクと師匠は絵を描く時いつも「指を殺す」という言い方をする。指というのは極めて繊細で理性的な運動を行いやすいので、しばしば安易に用いられるが、素描というカテゴリーの中で考えると、これは主観的にしろ客観的にしろあまりに浅薄な運動と言えるだろう。浅薄であるが故に、素描そのものの説得力が薄くなる。自明の理である。
 見て気持ちがいい素描というのはやはり大きな運動律の中で描かれている。どれほど繊細であろうと、緻密であろうとそれは一緒である。

 では、大きな運動律とは何か?答えは簡単、全身を使えているかどうかである。「絵は下半身で描く」という言い方をする人もいる。そう、下半身の堅牢な支えがあってこそ上半身を全面的に使えるのである。それは座って描いてても一緒で、漫然と座って描いているか、しっかりと腰を据えて座っているかで上半身の運動を大きく左右する。絵の大きさは関係ない。手首を支えるには肘が必要であり、肘を支えるには肩が必要であり、肩を支えるには背筋が必要であり、背筋を支えるには上半身全ての筋肉が必要だからだ。上半身全ての筋肉を支えるのは下半身である。要は全身運動に他ならないという事だ。

 だからといって筋力トレーニングをするのは浅はかであろう。別に全身の筋肉を緊張させる事は無いのである。むしろ、リラックスして自在に動ければよろしい。もっと簡単に考えていただきたい。描けばいいのである。とにかく描く。全身で描く。名刺サイズであろうが壁画であろうが、とにかく全身を使う。あまりに単純すぎるが故に見逃されがちだが、素描とはそうした性質の物であり、素描という基本的な運動が成立しない状態では、いくらテクニックを用いても意味が無いのである。基礎というのはそういうモノであり、実に地味で忍耐力が必要な作業なのだ。だから逆に基礎を楽しめるかどうかでかなり大きな差が現れる。いやいややるよりも楽しんで出来た方が良いに決まっているではないか。主観的か、客観的かという問題はこの後に始めて提示されるべき性質の物である。

 素描を苦行にしてはいけない。むしろ楽しむべきである。楽しく描かれた素描は見て気持ちがいい物だ。デッサンが狂っているとか、そんなことは後回しでよろしい。とにかく楽しく描く。それでいいのである。

2007/12/12

両部不二

 ここで言う「両部不二」とは便宜上使わせていただくだけの話であり、本来の意味するところとは全く違う事を先に断っておく。原典は密教にあり、金剛頂経系の智(精神の原理)と大日経系の理(物質の原理)の二つの異質なものを一つ身に修める事をいうらしい。世の中偉い人がいたものである。

 装画挿絵の両部とは何か?一つは行為であり、一つは思考である。ボクはおつむが弱いので上手に説明出来ないが、間をはしょって結論だけ言うとそういう事になる。

 行為とは。
 絵描きである以上、絵を描く事そのものであることは言うまでもあるまい。ただ、「描く」という行為の幅をボクは可能な限り広く、多く採るように努めている。これは後述する思考と大きく関係する。一つの様式を完成させようなどという不遜な考えをボクは持たない。様式とはボクにとっては方便に過ぎない。心身共に奥義を究めるような性質のものではないのである。暴論である事は承知である。まぁ、むちゃくちゃな考え方だが、原理だけは把握する。実践においては本物に近いものが出来ればそれでいいのである。だからといって様式そのものを否定するつもりは毛頭ない。そこにある画技には原理がある。使わせていただく以上はその原理を「知る」必要がある。少なくとも気がつかなければならないし、気がついた以上は敬意を払うべきである。それが礼儀というものだろう。
 ボクにとって「こんな絵は描けないですよね?」と言われるのは侮辱以外の何ものでもない。実際、今描けなくてもいずれ描けるようにしてしまおう、という野心は常にある。だから常に学ばねばならない。死ぬまで続く。
 このようなアホな事を前途有望な若者に教える気は更々無い。そもそもこうしたコトを思いついたり、納得した段階で人としてどうかしているのである。が、ボクはボクの師匠から教えられ目から鱗が落ちた。これこそが挿絵に措ける機能主義以外の何ものでもないのである。そして、ボクは腑に落ちてしまったのだ。どうしようもないではないか。

 そしてここに思考というもう一つの要素が加わる。
 挿絵画家は文章を読んで絵を描く。文章を読むというのはただ読むだけではない。文章を解体し物語のもっとも純粋な結晶とも言うべきものを抽出する事である。これが出来なければ、挿絵は挿絵として成立しない、というのがボクの持論である。持論なので一般的ではない。普遍化するつもりもない。ボク一人の身に修め門外には出さないつもりである。ナゼかと言うと思想というには余りに歪であり、偏りすぎているからである。何よりもこういう考えは元々バウハウス的機能主義、言い換えればデザインの世界で発生した考え方であり、挿絵とかイラストレーションのような境界が曖昧な領域で生まれたものではないからである。目的に応じて素材を吟味し設計をする、ただそれだけの話なのだが、グラフィック一般に措いてはこれがなかなかに厄介な上、挿絵となる更に条件が悪化する。
 目的とは何か?抽出した物語の結晶を絵に置き換える事である。素材とは画技であり、設計とはイメージする事である。自ずと物語に沿った絵が出来るはずである。空論に等しい事はボク自身が認めている。だが空論に陥らないためにボクはこうした思考に則って実践をする。が、完全に成し遂げる事は恐らく不可能であろう。ボクはそこまで賢くない。

 これでやっと両部不二の本題に入れる。いくら思考をしても実践が出来なければこれは空論に過ぎない。いくら描いても思考が無ければ挿絵たりえない。ボクは思考の部分で「素材とは画技である」と宣言した。素材は多ければ多いほどいいに決まっている。だからと言って上っ面だけを掠めても薄っぺらいモノしか出来ない。「原理を知る」という事がいかに重大か想像出来るであろう。
 逆にいくら素材が多くても、それを的確に使う事が出来なければ無意味である。物語の純粋な結晶体を抽出してこそ初めて素材を選択出来るのである。抽出するには引き出しの多さが必要となる。すなわち素材の量と質である。

 両者は異質ではあるが根本においてはやはり一つのものなのだ。が、ボクはこの両部を誰かに伝える気は無い。というか、思考の部分がめちゃくちゃ危険なのである。実際ボクはこれで身を危うくし続けているし、そのような考えを誰かに引き継いで欲しいとも思わない。だから誰かに何かを伝えるとしたら、それは画技に限られる。それもボクが知っている全てではない。全てを教えてしまうのもまた剣呑極まり無いのだ。だから、人によって教える事が出来る画技の量は限界がある。むざむざ破滅の道に誰かを引きずり込む気は無い。ボク一人で充分である。

2007/11/29

How to 或いは教示

 ボクに言わせればこれほど厄介なコトは無い。単純に個人の資質の問題であり、ボクがこうした事に向いていない人間である、というだけの話だ。先日作ったHow to ネタのための絵と解説も正にそうで、解説はいささかも解説にはなっていなかったりする。幸い、この辺の所は編集部の方で手を入れてくれるので基本的には問題ない。ボク自身が解説になっていない事を全面的に認めているので、編集作業は躊躇無く編集部に委ねられた。

 さて、ではなぜボクの書く解説が解説にならないのか?答えは簡単、ボク自身がボクがやっている事に何の魔術的効力が全く無い事を熟知しており、種や仕掛けはどこにも無いからだ。が、第三者から見ると話は別である。ボクにとって自明の理である事が、何か特別な技法、特殊な道具、特殊な段階を経ているように感じられることがあまあるらしいからである。
 まずはっきりさせておこう。ボクは特別な事はしていない(とボクは信じている)。特段、取り立てて特殊な訓練を受けたわけでもない(むしろ逆だ)。さらに、普段仕事で利用するPainterとPhotoshopに至っては、極めて古いヴァージョンの頃からある基本的な機能しか用いていない(新しい機能を覚える気力は全く無いし、昔ながらのの使い方で充分快適に作業出来る)。

 が、第三者の目から見ると摩訶不思議らしい。ついでに担当編集者に言わせると「一般的な尺度からすると、クオリティーと作業速度の関係が異常である」らしい(速すぎると言う事のようだ)。このことについてはボクにはよく分からない。何の手品も使っていないし、秘技を行っているわけでもない。ただ描いた、それだけである。もし、この「ただ描く」という行為が他者よりも速いとすれば、それは極めて単純な訓練の積み重ねの結果に過ぎない。単純な訓練とは何か?素描である。しかも非常に主観的な素描。所謂、陰影法とか遠近法とか言われる類いのものですらない。美大を受験する時のようなデッサンの訓練をボクはした事が無いし、この先も恐らくしないだろう。これは純粋にボクの性格に起因するものであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、解説が解説にならないのである。

 ボクにとって「どうしたらこんな風に、しかも短時間で出来てしまうのですか?」という問いは「どうしたら呼吸が出来るでしょうか?」という問いに等しい。そういう次元の考え方の持ち主が、どうして自分の作業を解説出来るだろうか?無理に決まっている。だが、問いを発する側にとっては重要な事である事もボクは何となく理解出来るし、そうした問いに対して否定的な立場を取るつもりは無い。が、いざ解説しようとすると上記した以上の事は決してボクの口から発せられる事は無いのである。質疑者は途方に暮れるだけ、何の解決にもならない。
 今回のように、間に編集者が入ってくれて翻訳(というしか無いではないですか)してくれる場合はまだマシである。直接ボクから聞かされた質疑者は煙に巻かれた気分を味わい、そして悩み、悄然とするであろう。つまり、ボクは教育者として不適合なわけである。

 そもそも、私的唯物論的機能主義というのが理解しづらいらしい。当たり前である。ボクがボクの性格、能力に応じてボク自身のために最適化した思考方法であり、普遍性とか真理とかとは程遠い所にある考え方だからだ。だが、ナニかを教えようとすればボクはこの歪な思考法に頼らざるを得ない。ボクにとって合理的でも、人によっては非合理のインゴットのように思われても仕方が無いのだ。この事をボクは熟知しているし、そもそもこの私的唯物論的機能主義はボクのオリジナルでもなんでもなく、ボクが勝手に師匠と拝む方から教えられた事を発展させたに過ぎないのだ。で、実際師匠の考え方を完全に理解し実践に移せる人間というのは限られているだろう。ボクはたまたまそういう僥倖に恵まれた(というか師匠同様、変人だった)だけである。似た者同士にならすぐに分かるが、少しでも外れるとあっという間に異端の思考と化し、下手をすると魔術的、或いは神秘的な奇跡になってしまう。
 はっきりさせておこう。ボクは何も隠さないし、何よりも私的唯物論的機能主義は本来ありとあらゆる方向に常に開示されている。理解出来るか出来ないか、それだけの話である。が、「それだけの話」だけにややこしいことになるようだ。

 不思議やなぁ・・・

2007/09/30

近代挿絵画家の系譜 序1

 歴史を遡れば、記号であった象形文字が表意文字、或いは表音文字として絵から分離し、文学と言う新たな表現領域を獲得した時に、テキストと挿絵の絶え間ない関係は始まる。膨大な資料と、客観的な分析が出来れば、ボクの仮説の証明は可能であろうが、ここではそこまで根源的な分析を行うつもりはない。ナゼなら現在の挿絵を取り巻く直接的な要因を整理、分析する事が責務であるからである。

 挿絵とは何か?この素朴にして曖昧なる定義を行う事が急務である。

 Wikipedeiaによると簡潔にその定義を明らかにしているが、充分ではない。
 もっとも懸案とされるのは「画家イラストレーター漫画家などが担当するが、 専門の挿絵画家も存在する。」と言う一節である。挿絵は余暇を利用した小遣い稼ぎでは無いのである。現実的にはこうした行為がまかり通っているわけだが、真摯に「挿絵さしえ)とは、新聞小説など文字主体の媒体において、読者の理解を助けるため等の目的で入れられる小さな。」であり、これをを遂行するには片手間では当然不可能である。
 更に深く追求すれば、挿絵は専ら小説・新聞にのみ依拠するものでも無い、という事実を明確に提示しよう。図鑑等で絵による「解説」を行うための絵もまた挿絵である。他にも例を挙げればキリが無いほど挿絵が関わる場面は指摘出来るが、筆者は専ら「小説」或いは「物語」に付随する挿絵を描く事のみ実践しているに過ぎず、他のジャンルにおける予見は可能ではあるが、ここの稿では「小説或いは物語」に付随する「絵」についてのみ「挿絵」とする。極めて狭義にならざるを得ないが、経験上「実践を伴わない論考ほど愚かな思考は無い」とする筆者の考え方の反映であると思っていただきたい。「挿絵」を描くというのは「行為」そのものであり「観念」に留まるものでは無いからである。実践を前提とした思考は、必ず実践により其の思考の正否を明らかにされる。そして、実践により思考は先へと進み挿絵は時代と共に変化するのである。

 机上の空論に陥ってはならない。普遍化を志すのも愚かである。変化していく価値観、技術に柔軟に対応しつつ「挿絵」はその存在意義が初めて問われるのである。

 挿絵画家にとってのテキストと挿絵の関係は極めてシビアで、テキストの解読、筆者の思想(或いは表現)に対する誠実な分析を必要とする。これは、もっとも重要かつ、根源的な責務であり絵を描く以前に必ず行わなければならない作業である。こうした思想がもっとも隆盛を極めたのは明治末期から戦前の出版活動においてである。現在、このような作業は横に置かれ、専らコマーシャル的な成果が上がるかどうか、という点の方が重要である事は言うまでもあるまい。出版業は文化事業ではなく、完全な消費経済活動へと変遷した事実を認識すれば、自ずと明快になるであろう。

 さて、この項では江戸末期の浮世絵から近代挿絵に変遷して行く過程を追いながら、その結果としての現代挿絵を分析、評価してみようと思う。

 明治維新を境に、日本は欧米文化との交流を通じて、さまざまなカルチャー・ショックに見舞われた事は今更指摘する事も無かろう。が、欧米的思想が、明治末期には明らかに挿絵の存在価値を近代的に変貌させた事実はあまり知られていない。欧米的弁証法がテキストと挿絵の関係を一変させたのである。これは当時の挿絵画家たちの論文、或いはエッセイ等で確認が出来る。

 テキストに書かれた場面を、分析し自己の価値観を優先するよりテキストの内容を重視して描く方法論は、少なくとも昭和初期の時点で一部の挿絵画家ではあるが既に確立されている。最も代表的で成功をおさめた挿絵画家は木村荘八であり、岩田専太郎である。彼らは「テキストと挿絵」という関係について極めて興味深い発言をしている。簡単に言ってしまえば「文章と挿絵は不離不分であり、こうした形式の出版においては、常に共同作業足らざるを得なく、互いのインスピレーションが思いもかけぬ相乗効果をもたらし、結果としてしばしば高い評価を受ける」という事である。

 ボクは挿絵画家であるので、文章に対して挿絵という形で作家の元に絵を提供する。もちろん、上手くいく時もあれば失敗する事もあるが、これは単に相互コミュニケーションの親密さ、或いは疎遠さが原因となるケースが大半である。
 一方で、コマーシャリズムに準拠した場合、このような作家と挿絵画家の関係はしばしば脇に放り出され、センセーショナルだが、内容に即さない挿絵が蔓延しているもの事実である。
 つまり、作家と挿絵画家の間には必ず出版社の編集者が立ち会い、市場の動向を加味して最終的な成果物を世に送り出すからである。ボク自身は、このシステムそのものに反論を抱くつもりは毛頭ない。が、あまりに軽薄で浅慮に満ちた出版物を目にすると正直うんざりする.勘違いしないで欲しいのは、ボク自身それに近い事をしているケースが多々あるという事実である。

 今は21世紀であり、現代の価値観、マーケットに応じた戦略がコマーシャリズムに措いて極めて重要かつ不可欠な要素である。この事実を認識出来なければ、ただの耄碌した狭い思考の中で、社会との軋轢は強まる一方である。

 近代挿絵画家から現代に至る系譜を概論レベルでも、考察する事は今を生きるボクにとっては重要であり、自らの装幀挿絵画家としての責務でもあると考える。

 不定期にならざるを得ないとは思うが、こうした学習もまた必要であろう。気長に構えていただきたい。一朝一夕で語れるような類いなものではないし、学生時代この事をテーマに論文を上梓したが、残念ながら概論に終始した。あまりに膨大かつ未整理な資料を前に学生風情が語りきる事など不可能である事は、明白である。どこまで、歴史的発展と時代に措ける意義、後世への影響、さらにPCの登情により錯綜を極めている現代を生きる一挿絵画家の私的な感想程度に読んでいただければ幸いである。

2007/09/28

装幀挿絵画家という立場

 ボクが「装幀挿絵画家」という肩書きに固執しているのにはそれなりのワケがある。そうでなければ、このような場所を自ら作り出す理由はあり得ない。

 「装幀挿絵画家」という呼称はあらゆる芸術的な意味合いを内包しない。むしろ疎外するのである。意外に思われるかもしれないが、ボク個人にとってはそうである。ボクが描く絵は常にテキストに従属する「商品」としての価値以外をボク自身が認めないからである。また、仕事以外で描く絵は、「商品」価値を高めるための実験と研究のためのものであり、所謂「作品」という価値は何にもない。他者がボクの絵に「作品」としての価値を認めるのは自由である。ボク自身、かつて先達の絵に触れたときにはテキストと分離した状態で素直に「作品」としての価値を感じていたし、それは今もそうである。

 ボクは「装幀挿絵画家」として資本主義国家・日本と社会契約をしているわけで、契約とはすなわち経済活動に措いてのみである。それ以上でも以下でもない。そういった意味では、所謂「芸術家」ではない。むしろ「労働者」(特殊ではあるが)としての側面の方が、ボクにとっては重要なのである。マルクス・レーニン主義的表現でいえば、プレリタリアートに過ぎない。種々の専門書、或いは日々の営みは基本的に「装幀挿絵画家」としての立場に集約される。一見、奇矯な発言に思われるかもしれないが、ボク自身が「装幀挿絵画家」という立場に託した思想とは正にこれなのである。

 「装幀挿絵画家」は当たり前の話しだが、絵を描く。絵を描かない絵描きは絵描きではない。絵描きと言う大きな枠組みの中に「装幀挿絵画家」が内包されている以上、ボクは絵を描き続ける。そして、往々にして誤解されるのだがボク自身が「好きでやっている」と見なされるケースが良くあるのである。もちろん好きであることは間違いないのだが、ボクはこの「好きなこと」を社会契約として売り飛ばしてしまっている、と言う事実が世間的には理解しがたいものと映るようである。それはイラストレーターとか、クリエイター、あるいはアーティスト、といった定義が不明瞭な領域に埋没している結果であり、特に驚くことでは無い。が、こうした世評とボク自身の思考があらゆる場面で対立、あるいは誤解を招き、ボク自身が深刻な悩みに陥っていることもまた事実である。
 ボク自身が考える「装幀挿絵画家」としての立場を誠実に全うしようとすればするほ、こうした矛盾は顕在化される。これが今ボクが抱えている最大の悩みであり、自己矛盾でもあることを素直に告白しよう。

 が、一方でもっと矛盾の生じ得ない職業というのはあるのも事実である。それは、会社員であったり(ボク自身かつて会社員であった時期がある)なんかするのだが、ボクはこのような集団生活に溶け込むことが出来ないのである。所謂「社会不適合者」に過ぎないのである。社会契約を行う上でボクに残された道は「絵を描く」という行為以外にあり得ない。というか、それしかできないのである。一種の精神障害者とみなされてもボクは何の痛痒も感じない。事実だからである。困るのは経済活動としての「装幀挿絵画家」という職業が今、個人的に困難な状況にある、ということである。

 最初は「生きるため」の労働であったのに、今では「生きながらえてしまった惰性」としての労働と化していることである。だからと言って日々の研鑽を怠ることは無い。問題の根本は「ボクが生きている」という事実に過ぎない。ちなみに色々な所で言及しているが、ボクは運命論者でもなければ、神秘主義者でもなく、ある種の特権的な立場を望んでいるわけでもなんでもない。素直に仕事として「装幀挿絵画家」という立場を全うする義務に突き動かされいているだけである。

 こうした態度は、一般的に「狂気の沙汰」であり、「国民の義務と責任を放棄する不穏分子」としてしか理解されない。

 極めて遺憾である。

2007/07/21

20世紀型機能主義に依る、現挿絵の意義と、21世紀への展望

 勘違いして欲しくないのは、21世紀に向けての建設的な提案をボクがする気は無いということである.様々な不連続対、或いは事象が絡み合い、時に突変異を起こして、新たな不連続ベクトルが産まれる。既存の価値観は多かれ少なかれ、この突然変異体に明鏡を受けるし、新たなビジョン、可能性が切り開かれるものとボクは信じている。

 ここでのボクの役割は、20世紀に措ける機能主義を完全に装画・挿絵という分野においてそう決算しつつ、解体することを主目的とする。勿論経済活動としての活動は必要充分条件であり、この起点から上記したような解体作業を個人が試みるというのは無謀以外の何ものでもない。それが個人的欲求とはいえ、ボクは理論と実践というやり方を選択した。唯物論的機能主義は量子力学という畑違いの要素を内包しつつ、ボク独自の歪な思考を論ずることをこの場所で行うことは、無謀だとは思うし、そもそも自分自身の能力にもかなり疑問がある。が、ボクはそれをする為に存在するのである。

 歴史的な検証と、テクノロジーの進化は、挿絵という旧態依然とした分野において大きな変革が求められるべきであり、それは表層的な流行とは別に、現在の挿絵業界への大いなる反動でもある。そしてこのような社会的に認められた(もしくはきちんと理解しないままにモードにそって無目的に進行する)現状に対するドン・キホーテ的なアプローチであることもボクは重々承知している。

 ではなぜこのような暴挙にボクを駆り出すのか?答えは簡単。ボクが挿絵という形式を愛し少しでも貢献出来れば、という思いに他ならない。

 そういう意味では、学生臭さの抜けない初心な発想なのかもしれないが、そもそも学術研究というのはそういうものである。

 ここでは、徹底的な理論による様々なアプローチの正否を、広く開示することを目的とする。
 願わくば、少なくともボク自身の中でこうしたアプローチが良い刺激になることを望みつつ、逐一報告していくことを主旨としたい。聞き慣れない専門用語が脚注抜きでバンバン使用されるだろうが、可能な限りそれぞれの言葉の定義付けを明確にして、発表出来ればと切に願うものである。