2007/09/30

近代挿絵画家の系譜 序1

 歴史を遡れば、記号であった象形文字が表意文字、或いは表音文字として絵から分離し、文学と言う新たな表現領域を獲得した時に、テキストと挿絵の絶え間ない関係は始まる。膨大な資料と、客観的な分析が出来れば、ボクの仮説の証明は可能であろうが、ここではそこまで根源的な分析を行うつもりはない。ナゼなら現在の挿絵を取り巻く直接的な要因を整理、分析する事が責務であるからである。

 挿絵とは何か?この素朴にして曖昧なる定義を行う事が急務である。

 Wikipedeiaによると簡潔にその定義を明らかにしているが、充分ではない。
 もっとも懸案とされるのは「画家イラストレーター漫画家などが担当するが、 専門の挿絵画家も存在する。」と言う一節である。挿絵は余暇を利用した小遣い稼ぎでは無いのである。現実的にはこうした行為がまかり通っているわけだが、真摯に「挿絵さしえ)とは、新聞小説など文字主体の媒体において、読者の理解を助けるため等の目的で入れられる小さな。」であり、これをを遂行するには片手間では当然不可能である。
 更に深く追求すれば、挿絵は専ら小説・新聞にのみ依拠するものでも無い、という事実を明確に提示しよう。図鑑等で絵による「解説」を行うための絵もまた挿絵である。他にも例を挙げればキリが無いほど挿絵が関わる場面は指摘出来るが、筆者は専ら「小説」或いは「物語」に付随する挿絵を描く事のみ実践しているに過ぎず、他のジャンルにおける予見は可能ではあるが、ここの稿では「小説或いは物語」に付随する「絵」についてのみ「挿絵」とする。極めて狭義にならざるを得ないが、経験上「実践を伴わない論考ほど愚かな思考は無い」とする筆者の考え方の反映であると思っていただきたい。「挿絵」を描くというのは「行為」そのものであり「観念」に留まるものでは無いからである。実践を前提とした思考は、必ず実践により其の思考の正否を明らかにされる。そして、実践により思考は先へと進み挿絵は時代と共に変化するのである。

 机上の空論に陥ってはならない。普遍化を志すのも愚かである。変化していく価値観、技術に柔軟に対応しつつ「挿絵」はその存在意義が初めて問われるのである。

 挿絵画家にとってのテキストと挿絵の関係は極めてシビアで、テキストの解読、筆者の思想(或いは表現)に対する誠実な分析を必要とする。これは、もっとも重要かつ、根源的な責務であり絵を描く以前に必ず行わなければならない作業である。こうした思想がもっとも隆盛を極めたのは明治末期から戦前の出版活動においてである。現在、このような作業は横に置かれ、専らコマーシャル的な成果が上がるかどうか、という点の方が重要である事は言うまでもあるまい。出版業は文化事業ではなく、完全な消費経済活動へと変遷した事実を認識すれば、自ずと明快になるであろう。

 さて、この項では江戸末期の浮世絵から近代挿絵に変遷して行く過程を追いながら、その結果としての現代挿絵を分析、評価してみようと思う。

 明治維新を境に、日本は欧米文化との交流を通じて、さまざまなカルチャー・ショックに見舞われた事は今更指摘する事も無かろう。が、欧米的思想が、明治末期には明らかに挿絵の存在価値を近代的に変貌させた事実はあまり知られていない。欧米的弁証法がテキストと挿絵の関係を一変させたのである。これは当時の挿絵画家たちの論文、或いはエッセイ等で確認が出来る。

 テキストに書かれた場面を、分析し自己の価値観を優先するよりテキストの内容を重視して描く方法論は、少なくとも昭和初期の時点で一部の挿絵画家ではあるが既に確立されている。最も代表的で成功をおさめた挿絵画家は木村荘八であり、岩田専太郎である。彼らは「テキストと挿絵」という関係について極めて興味深い発言をしている。簡単に言ってしまえば「文章と挿絵は不離不分であり、こうした形式の出版においては、常に共同作業足らざるを得なく、互いのインスピレーションが思いもかけぬ相乗効果をもたらし、結果としてしばしば高い評価を受ける」という事である。

 ボクは挿絵画家であるので、文章に対して挿絵という形で作家の元に絵を提供する。もちろん、上手くいく時もあれば失敗する事もあるが、これは単に相互コミュニケーションの親密さ、或いは疎遠さが原因となるケースが大半である。
 一方で、コマーシャリズムに準拠した場合、このような作家と挿絵画家の関係はしばしば脇に放り出され、センセーショナルだが、内容に即さない挿絵が蔓延しているもの事実である。
 つまり、作家と挿絵画家の間には必ず出版社の編集者が立ち会い、市場の動向を加味して最終的な成果物を世に送り出すからである。ボク自身は、このシステムそのものに反論を抱くつもりは毛頭ない。が、あまりに軽薄で浅慮に満ちた出版物を目にすると正直うんざりする.勘違いしないで欲しいのは、ボク自身それに近い事をしているケースが多々あるという事実である。

 今は21世紀であり、現代の価値観、マーケットに応じた戦略がコマーシャリズムに措いて極めて重要かつ不可欠な要素である。この事実を認識出来なければ、ただの耄碌した狭い思考の中で、社会との軋轢は強まる一方である。

 近代挿絵画家から現代に至る系譜を概論レベルでも、考察する事は今を生きるボクにとっては重要であり、自らの装幀挿絵画家としての責務でもあると考える。

 不定期にならざるを得ないとは思うが、こうした学習もまた必要であろう。気長に構えていただきたい。一朝一夕で語れるような類いなものではないし、学生時代この事をテーマに論文を上梓したが、残念ながら概論に終始した。あまりに膨大かつ未整理な資料を前に学生風情が語りきる事など不可能である事は、明白である。どこまで、歴史的発展と時代に措ける意義、後世への影響、さらにPCの登情により錯綜を極めている現代を生きる一挿絵画家の私的な感想程度に読んでいただければ幸いである。

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